良寛さん。といえば
「まりつき」と思い浮かぶ人は多いだろう。その良寛さんと弟子の貞心尼のやりとりをもとに作曲された合唱曲
「良寛相聞」(りょうかんそうもん)を指揮する機会に恵まれた。
日本人でありながら西洋音楽ばかりを勉強していた若い頃とは違い
やっぱり日本の作品の魅力を大事にしたい。それは日本語の美しさ、日本の四季やそのうつろいの美しさが感じられるからだ。
「良寛相聞」についての資料
■良寛について(1758年~1831年)
子供たちと手まりで遊ぶお坊さんとして名高い良寛は、越後国出雲崎の名主の長男に生まれた。しかし、わけあって22歳で出家の道を選んだ。
生涯に残した七百余首の漢詩には「人の生きる道」がやさしく説かれ、千四百余首の和歌には「生きる喜び」と「悲しみ」がおおらかに歌い上げられている。
江戸時代末期、貧しくとも心豊かに生きたユニークな禅僧。
◆貞心尼(テイシンニ)について
俗名奥村ます・・・・・良寛の晩年にあたたかな春が再来したような親愛の時をもたらした女性
師とも父とも慕い仕え、ともに学芸に遊び、清らかな情愛をはぐくんだ下級藩士の家に生まれ医者に嫁いだのちに離別し、仏門に入った。
□「蓮の露」について
手紙を交わし、語り合い、歌を詠み交わす。看取るまでの日々。それを貞心尼がまとめた「蓮(はちす)の露」には良寛と貞心尼が交わした和歌が五十数首記されている
○良寛の最期
良寛のいた島崎と貞心尼のいた福島の間には塩入峠があって冬はたずねることはできなかったが、良寛が病気だという知らせを聞き、歌を託した。
良寛からの返事はは「春になったらすぐにきてください」
しかし、春を待つことなく良寛は薬も食事もとらなくなり、貞心尼は「自ら死ぬおつもりですか」と責めるが良寛から「仏から預かったこの身、わざと粗末にすることはない。そのほうが(薬も食事も取らないこと)苦しくない。こうやって様子をみているのだ」との歌。
だが、雪解けを待たず良寛危篤の知らせが届き、貞心尼は驚き、雪の塩入峠を越えてかけつける。
かけつけたその時も良寛は喜びを歌であらわす。
それから看取るまでの間も歌で言葉が交わされる。そして天保2年1月6日の雪が激しく降る日に良寛は旅立った。