学校の教室のことを思い出してみる。
小一の時のクラスの教室のことはおぼえていない。
小二の時に転校した。
転校した先の学校の2年生のクラスのいくつかは
(AからHまであったので)木造校舎で、
Aのクラスなどとは校舎が違い、離れていたと思う。
私はH組だった。
校舎のそばには水飲み場があり、
ポンプ式の水道もあったと記憶している。
校舎は全てが木で、居残り勉強は階段の下の空間に
机があり、そこでしたことがある。
教室にはピアノではなく、足踏みオルガンがあり、
学芸会をしたのもおぼえている。
自分の体が小さいので教室をすごく大きいと思っていた。
でも実際広かったのではないかな?どうかな?
当時の教室の写真がないのがとても残念。
でも、当時のことは心に強く残っている。
ストーブでパンを焼いたことや制服の上に
スモックを着て工作や粘土などの授業を受けたこと。
友達が激しい喧嘩をして大騒ぎになったこと
などが思い出される。
もう50年以上も経っているのに時々思い出す。
この教室のオルガンでみんなで歌った。
大きな声で。競って歌った。
担任の先生はのちに合唱団の指揮や指導をしている先生として
長いお付き合いになった先生で、
きっとこの先生との出会いがなかったら
音楽の道へは進んではなかったかもしれない。
今も合唱をしていたり、
第九の指導などをしているようなことはなかったと思う。
その後、三年生になったときは鉄筋の教室へ行ったと思う。
木造ではなく雰囲気がかなり違っていた。
その時に教室にオルガンやピアノがあったか?
というと記憶にない。
担任の先生が国語の方に力を入れる先生で
詩を書いたり詩集を作ることなど文章の方を鍛えていただいた。
6年の時は教室でオルガンを弾いたのをおぼえている。
音楽の歌の試験は私はオルガンでもみんなの伴奏をした。
「灯台守」という歌。
当時の音楽室にはオルガンがずらっと並んでいて、
それを机代わりにしたり、みんなでオルガンを弾いた。
合唱団の練習の時はそのオルガンを全部動かして隅に寄せて
広い空間を作って練習。
多分、それっきりだと思う。足踏みオルガンとの付き合いは。
大学の時もオルガンは和声の時に
それぞれに与えられたけれど、
先生だけにみんなの演奏が個別に聞こえるような
感じだったのできっと電子のオルガンだったと思う。
それから何十年かして、映画「見えないから見えたもの」
(挿入歌などを担当しました)
の公開の舞台挨拶で県北に行った時に久しぶりに
足踏みオルガンに触った。
その後、突然家にオルガンが来ることになった
(先輩ありがとうございます)
オルガンによってコロナ禍はすごく助けられた。
ひたすらオルガンを弾いた。
ペダルを踏んで心を落ち着かせた。
私の業種は本当にダメージが大きく、長く
もう仕事ができないのかもしれないと不安が大きく続いた。
最初はうまく弾けなかったけれど2年程弾いていると
だんだん馴染んできたように思う。
今はもう作られていないこの楽器。大事に弾いていきたいです。