「合唱」今、窮地に立たされていると言っても過言ではない状況です。自由に大声で歌えなくなるような日が来るとは・・・・
合唱は私にとっては長い間慣れ親しんだ大事なライフワークです。
合唱との出会い 先生の突然のスカウト
私がきちんと合唱をはじめたのは小学校3年生になったばかりの時です。
でも、その前に小学校2年生の時に担任の先生がみんなをハモらせてくださったような記憶があります。
あまり幼いと他のパートにつられてしまって自分の歌うべき音を見失うこともあるので合唱は難しいと思うのですが、自然にハモることの楽しさを教えてくださったと思います。いつの間にかできていた。
木造校舎の角の教室で毎日みんなで一生懸命声を合わせて歌っていました。
誰かが歌い出すと自然にみんなが声を合わせて歌う、そんな教室でした。
ある日、2年生の時の担任の先生が3年になった私を職員室に呼びました。
何か悪いことをしたかな?とドキドキしながら行くと
「学校の合唱団に入らないか?」即答できなかったのですが、返事を聞くより前に
先生から譜面を渡されました。たしか「清水のかんのんさま」という曲でした。
「まずは合唱団に入ってピアノの伴奏からチャレンジしてみたら?」と言われたのですが
今考えると先生はなんと大胆というか・・・・合唱も歌い、伴奏もして、みんなの音とりもするのです。
3年生にしては重たい責任。
その小学校の合唱団は毎年コンクールに出るような合唱団で
練習は土曜の午後が中心。あの頃は土曜は「半ドン」といって、午前中は普通の授業がありました。いまのように休みではないのです。そして、夏休みも毎日練習に励んでいた合唱団。
そこの伴奏者は4人ぐらいの体制だったと思います。かなり層が厚かったです。
よくわからないけれど先生からの突然のスカウトを「嬉しいこと」と感じて譜面を受け取り
職員室を後にしました。
それまでピアノは続けていたけれど、そこからが私の合唱人生の始まりです。
今もずっと同じことを続けているわけですが飽きっぽい私がよく続けてこられたと思います。
それはその先生のお力も大きかったと思いますが
合唱という活動の中で知り合った多くの方との関係に支えられてきたのではないかしら。
常に生活の側に「合唱」があった
合唱を続け、専門に学ぶ学科で勉強して
卒業してからも合唱と共に歩んできた。
常に合唱が側にありました。
時には続けられないような事情も出てくるものです。
家族の急なことなどで生活が変化したとき、もうだめだ・・・・
と思うようなことがあったとき、それでもやっぱり音楽の仲間に支えられてきた。
ベートーヴェン の第九の合唱指導を担当するようになって十数年。
多くの方との出会いを通して学んだことは多いです。
いつまでも毎年同じように出演できたらいいですが今年参加できていても
来年必ず参加できるかというと無理なこともあります。
(今年はみんなでコロナ休みですね・・・・)
いのちやからだの調子には永遠はないです。
たくさんのお別れも経験。二度と会えないお別れ。
だからみんなで毎年本番を迎えられることは実は当たり前のことではない
特別なことなのだと思って臨もうと毎年思っている。
実は一昨年の年末私はうっかりしていて負傷してしまい
通院で治療を続けていました(これを書いたのは少し前で今はほとんどよくなっています)
その傷を負ったとき、「ああ、今年の第九はもしかしたら出られないかもしれない」と
がっかりしました。なんとか出られそう、と思ったときは安堵しましたが
そのためには少し工夫が必要で、調整してなんとか出演できました。
なかには練習の間に病気が発覚してやっぱり「今年は出演は難しい」という方もおられ
当たり前のように出演できていたのに悔しいなあ、というお気持ちだったでしょう。
病気でその治療の合間をぬってなんとか本番の舞台に乗ろう!と
調整されている方のこともずっと心配しながらの稽古だった年もあります。
いろんな想いや努力、心遣い、家族の応援などがあってのそれぞれの第九や他の合唱団への参加。
「どうして何度も第九を歌うの?」とか
「声楽的な立場から見ると第九参加や合唱にははあまり賛成できない」など
いろいろな意見がもあると思うのですが
それはやっぱり合唱ならではの
「一人ではできないこと」「声を合わせること」の魅力にとりつかれているのかもしれませんよ。
そこは人にはどうにもできないことです。
練習の経過も楽しいのかもしれません。
それも全部ひっくるめての「合唱」です。
何も気にせず歌える日が来ると信じています。希望を持ち続けたいです。