【ゴンドラの唄】名曲の背景と作曲家中山晋平のこと

「ゴンドラの唄」を知ったのは大人になってからです。
あるケアハウスの竣工式でぜひこの歌をと言われて演奏したのが初めてでした。
その頃私は30代で、この歌は知りませんでした。

ゴンドラの唄は昭和初期に生まれた歌。
昭和27年(1952年)にその歌に永遠の命を吹き込んだ黒澤作品が封切られたのは
この歌の作曲者は中山晋平。
ひょっとしたら最後に見た映画が「生きる」だったかもしれないと言われている。
なぜならば昭和27年の12月30日に65歳の生涯を閉じたからである。

黒澤明監督 映画「生きる」日本の映画史に残る名作
お役所仕事のマンネリな生活で無気力な男。
妻に先立たれ、同居する息子夫婦とは他人同然。
そんな男が余命数ヶ月と悟った。
残りの日々をどう生きるのかを描いた作品。
その映画「生きる」にゴンドラの唄が流れます。

昭和27年12月の2日東京はとても寒かった。
恵比寿駅に近い映画館に中山晋平は親しい知人の誘いで入った。
暖房はない底冷えのする小屋であったそうだが晋平はとても感動した様子だったそう。
次の日に激しい腹痛を訴えて寝込む。そして12月30日に帰らぬ人に。
自分が若い頃に作った歌「ゴンドラの歌」が
に再び脚光を浴びているのはどんな気持ちだったでしょうか。

命の儚さとかけがえのない今を歌う「ゴンドラの唄」
この曲は作詞の吉井勇と中山晋平が共に28歳の時に作った曲である。
大正4年1915年4月に芸術座が上演するツルゲーネフ原作の物語の劇中歌としてあの松井須磨子が歌った。

吉井勇は短歌の世界で当時すでに名声を得ていた。
その前の年に「カチューシャの唄」が大当たりした中山晋平。
吉井の書いた詩を受け取り、作曲の締め切りが迫っていた中山晋平のもとに「母危篤」の電報が舞い込む。
母の死の直後悲しみに暮れる彼が汽車の揺れの中で浮かんだ曲それがゴンドラの唄だった。
これは私の勝手な思いですが、「ゴンドラの歌」の8分の6拍子はなんとなく「ガッタンコ・ガッタンコ」と汽車に乗った時の揺れの音に合うような気がします。

優れた歌の寿命は長い。
人の命よりずっと長く人の心に刻まれる。

中山晋平がその生涯で作曲した作品は、童謡823曲、新民謡287曲、流行歌468曲、その他学校の校歌・社歌等217曲あり、現在判明しているだけで1795曲の作品があるそうです。
その一部の曲名を書いてみます

・てるてる坊主
・砂山
・黄金虫
・肩たたき
・里ごころ
・シャボン玉
・背くらべ
・あの街この街
・うさぎのダンス
・あめふり
・雨降りお月
・証誠寺のたぬき囃子
・あがりめさがりめ
・鞠と殿様
・きゅーぴーぴーちゃん
・カチューシャの歌
・ゴンドラの歌
・船頭小唄
・波浮の港
・東京行進曲
・鉾をおさめて

今このような懐かしい歌を歌う機会はとても少なくなってきています。
大人になってもう一度歌ってみるとその曲の魅力にあらためて気がつくこともありていないからです。ね。

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