【声のこと】ミュシャの巨大絵画と声のトーン

数年前に「ミュシャ展」が開かれ、用事があって上京したので六本木にも寄って国立新美術館で観てきました。当時は猫が一人で留守番で駆け足での一泊2日でした。
その作品の素晴らしさや大きさに驚いたのももちろんですが
(こちら、岡山ではこういう企画は難しい)
とにかく人が多いのです・・・・・どこに行っても多いけれど
展覧会会場もとんでもない人の量です。


鑑賞するためにチケットを買う人の列がまたすごい、、、、、
私たちはそれを見越して、途中のタクシーでの移動でコンビニでタクシーに待ってもらい
チケットを先に購入して行ったので
そこまで並ばなくても(それでも並ぶという)中にたどり着くことができました。
その日は「草間弥生展」も同時開催だったので
本当にすごい人で、田舎ものの私はボー然としながらです。でも滅多に観られないものですからね。頑張って観てきました。しかもそれで弾みをつけて森美術館(六本木ヒルズ)へもはしご。必死です。なんとか「良いものを観て帰りたい」からです。

さて、ミュシャの絵については
スメタナ作曲の交響詩「わが祖国」の話を外すことはできませんね。


パリを離れ、1904年から09年にかけてアメリカへ渡ったミュシャ。
異国の地であるアメリカで聴いた祖国(チェコ)の作曲家「スメタナ」の交響詩「わが祖国」に感動してスラブ民族の誇りと悲哀の歴史を描くことを決意。
聴力を失った作曲家としてはベートーヴェン が有名ですがスメタナもそうでした。
この交響詩の6曲のすべては聴こえなくなってから作曲されたもので、
あの壮大な音楽はすべて彼の頭や心の中で鳴ったものなのだと思うとミュシャは「スラヴ叙事詩」を描くことへの意欲を一層強く掻き立てられて作品に向かったのではないかと思いますが、とにかく大きな作品でした。縦が6メートルで横が8メートル。それを20点。
50歳で故郷に戻り、晩年に16年もかけて描いたこの「スラヴ叙事詩」。いまだに脳裏に焼き付いて離れません。

その詳しい内容はまたの機会にお知らせするとして、
わたしが驚いたのは、その大きなサイズの絵には20点それぞれにたくさんの人が前にもまわりに大勢いて鑑賞しているのですが、その静けさです。


恥ずかしい話ですが、倉敷の大原美術館には「お静かに」と
喋らないで鑑賞するように書かれている注意書きのプレートが絵画と同じ高さで壁に貼られています。
また、県立の美術館ではまるでここは自分の家というように
べちゃべちゃと話をしながら数人で鑑賞する人たちが多く、
なぜ黙ってみることができないのか?喋りに来てるのか?
と驚くことがあります。

じゃあ、そのミュシャの絵のまわりで誰しもが無言であったか?というと
そうではないのです。
やっぱり一緒に来た人に感動を伝えたい想いはある。
だから喋るのですが、それが不快ではない。
それは「声のトーンと声量」が違うからです。
声に、喋り方に工夫をしている。ヒソヒソ声でもない
そういう上手な声の使い方をしているので不快ではないのです。
もっと耳をすませると、「声帯の負担を最小限にした声の出し方」だとわかりました。


「声の出し方」というのはやっぱりシーンによって変えるべきであるし
それに気がつくべきなのですが
どこでも全開で人目も気にせずに美しくない声で響き渡っているかどうかは
自分ではなかなかわからないことかもしれません。


やっぱり自分の声を知ることが重要で
ちょっとだけ気をつけることは重要。
場合によっては録音してみることが大事かもしれません。
そして、出るべきところでしっかり話さないといけないときは
それは出力をパワーアップ、わかりやすい声と発音で、というふうに。
実はさまざまな色を持つ声を一人の人が持っていますから
TPOに合わせて声の出し方を使い分けるということが必要なのではないでしょうか。

ミュシャ という名前は ムハがチェコ語の発音で、フランスの発音がミュシャだそうです。
アール・ヌーボーの流れるような曲線のポスターなどが有名ですが
彼もまたそのスタイルの絵だけにはとどまらず、自分の中にある別の引き出しを開けて
あの「スラヴ叙事詩」の巨大なキャンバスに命をかけて描くということをされたわけです。

参考まで(動画)
カラヤン指揮のモルダウ 
プラハの風景入り  
クーベリック指揮「わが祖国」

スラヴ叙事詩について国立新美術館サイト

六本木ヒルズより

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