お別れの時をお好きだった曲で【ご葬儀で依頼があったピアノ演奏】 1
合唱団の伴奏がはじめての音楽の仕事でした
その方は合唱団のリーダーでした。私が学生時代を過ごした東京を離れて故郷であるここ岡山へ戻ってきた時に「合唱団の伴奏をしてね。待ってたよ」と帰りを喜んで伴奏者として迎えてくださった。
学生生活をとてもとてもとても満喫して「ああ、田舎へ帰るのはいやだなあ」と思いながらも親との約束「4年で帰ってくること」を守り田舎へしぶしぶ帰ってきたのです。
当然ですが仕事も決めておらず東京で使っていたグランドピアノと身の回りのものを一緒に引越しのトラックで送り出し、都会に別れを告げて新幹線に乗り込みました。
最初は音楽の仕事がなかなか見つからず、大好きな洋服関係のアルバイトをしました。
アルバイトが終わってから、月に四度ほどですが女声コーラスの伴奏の仕事をその人は依頼してくださって当時私の母もその団で歌っておりましたので、母と一緒に免許取り立ての車に乗り、練習に通いました。
合唱団の活動とリーダーの闘病生活
その合唱団へはピアノを弾きに行きましたがそのうちに指導の先生がお忙しくなられて私がそのまま指導を引き継ぎました。当時はママさんコーラスがとても盛んであり、年に何度かのステージもありました。みんなでお揃いの衣装を作って着始めたのもその頃。正統派の合唱曲をしっかり練習して暗譜して舞台に何度も立ちました。
合唱団というのはその練習の時間だけの付き合いのように見えて実はとても仲良くなると親しい友人のような付き合いがはじまります。
その団の代表者であったその方は実は私の小学校時代の同級生のお母さん。ですから小さい時からよく知っているわけです。
豊かな声と行動力、熱心なところが大好きでした。華やかで歌が大好きで!
ある時、ステージに出る予定の少し前に入院されることになり、その後も闘病を続けられておりました。一度はよくなられて、また前のように合唱団で一緒に歌いました。
最後にお目にかかったのはある場所で一緒に温泉に入り、その後食事を一緒にした日でした。
「ちょっと痛いのよ。このあたりが変なの」と言われて心配していました。
お元気な時に「愛の讃歌」がお好きでカラオケでも歌い、合唱編曲したものも歌いました。そのときにそっと言われたのが「私のお葬式のときは先生、愛の讃歌をよろしくね。頼むよ」と冗談の延長のような感じで告げられたのでした。
私は「またまた、そんなのまだ先だよ。でも、そういう時があったらきっと弾かせてもらうね」と答えました。
ご葬儀での演奏の依頼
いよいよ体調がお悪くなられたときにご家族である私の同級生と話をする時間がありました。「えりちゃん。もしもの時はお願いね。愛の讃歌。ピアノね」と言われたのです。
私は困惑しました。そんなに悪いの?そんなことってあるの?と。
でもやっぱり病状はよくなくて・・・・ついにその日をむかえてしまったのです。
悲しい気持ちがとても大きかったのですが、ご本人からもご家族からもご依頼いただいた「音楽で送ってほしい」というお気持ち。
当時はまだそんなにご葬儀の時にピアノの生演奏を入れてというスタイルは行われていなかったと思います。
でもぼやぼやしてはいられません。急いでまずはグランドピアノを貸してくれて運んでくれるところを見つけないといけません。その会場にはもちろん何も楽器はなかったですし、当時はデジタルピアノも発売されていましたが今とは違いとても重かったので自宅にはありましたが自分で運ぶこともできずにいました。
でも、「どうしてもグランドピアノの音で母をおくってあげたい」という想いを叶えてあげたかったのでなんとか運んでくださる方を探しました。
しかしなにしろはじめてのことですから急いで会場に打ち合わせにまいりました。
書くのが遅くなりましたが多分20年ほど前だったと思います。二月の寒い日であったことはおぼえています。
(次へ続きます)